容姿について思うこと
10代の頃は、恋愛するために見た目なんか関係ないと思っていた。
子供の頃って、まだ美醜に関する判断基準が確立してないと思うんだけど、私は確立しないままけっこう大きくなってしまったと思う。
理由は分からないけど、アニメと漫画と声優さんが好きで、芸能人に興味がなくて、「美しいとはこういう人だ」という文化に触れてこなかったからではないかと思う。
しかし、社会人になってアニメも漫画も見なくなった私は、テレビを見るようになり、世間の美醜の判断基準を自分の中に取り入れるようになった。
こういう顔が、綺麗な人。
こういう顔は、テレビの中だとそうでもないけど、身近に居たらとても綺麗な人。
という風に。
そして、私の容姿が、お世辞にも決していい方ではない、ということや、世の女性は綺麗になるために努力している、ということも分かった。
美しさというのは、生まれ持ったものだけで決まっているんだと思っていた。だけど、顔面偏差値が平均的な人たちは、ちょっとした気遣いで手に入る清潔感や雰囲気というものを大事にしているということも分かってきた。
私は、なぜかモテたいと思うことや、美しくなりたいともがくことが恥ずかしいことだと思っていた。
モテたいと願うことは、モテない自分を認めることになるし、あまりにもモテない現実が惨めすぎたからかもしれない。
社会人になってお金を手に入れた私は、好きな服を買ったり、好きな化粧品を買ったりして、人に「その服かわいいね」とか「綺麗になったね」と言われる喜びを知った。
私はもっときちんと女性らしくなりたい、そしてモテたい、「好きな人」と付き合ってみたい、と願うようになった。
女性らしさとは何か?
それは、あくまでもイメージ、印象であると私は思った。手っ取り早く女性らしさを手に入れるには、女性のシンボルを身にまとえばいいのではないかと。
つまり、
・長い髪
・スカート
・丁寧な言葉遣い
などのこと。
今までショートヘアとズボンで生活してきた自分を捨てて、ロングヘアとワンピースで生活する自分に少しずつ変わっていった。
そして、それにあわせて態度が変わる男性と、変わらない男性を、私は見てしまった。
素敵な人、尊敬できる人は、私がズボンからスカートに履き替えたくらいで、態度が変わることはなかった。ずっと優しくて、器が大きい人だった。
そして、私が髪を伸ばしてパーマをかけたとき、「きれいになったね」とほめてくれた。
とても尊敬できない人、いやだなと思う性格の人は、女性のシンボルを持たない、垢抜けない私を明らかに見下していた。そのくせ、髪をおろしてワンピースを着た私を見て、軽々しく「好き」と言った。
悔しかったし、腹が立った。
だけど、見た目を整える、ということや、女性らしく振る舞う、ということは、実はとても暮らしやすくなるための手法なのではないかと気づいた。
容姿がいいということは、それだけ人生が楽になるという現実も知った。
しかしもちろん、容姿だけがすべてではないことも知っている。
綺麗になりたいと願うのは、綺麗なものへの憧れよりも、綺麗な人が得られる特典を享受したいから。
ちやほやされたい、ほめられたい、優しくされたい、楽に生きたい、自分が好きだと思う人と付き合いたい。
そのために、今できる範囲のことで綺麗になりたい。
それは今も変わらずに思っていること。
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